2008年09月05日
はじめに
拙著『目からウロコの琉球・沖縄史』中の通史「目からウロコ特製!最新版すぐわかる琉球の歴史」を、ここで紹介したいと思います。
おそらくネット上で見ることのできる琉球の通史では、これが最も新しく、学術的な研究成果にもとづいたものになるはずです(2008年9月現在)。なお、拙著掲載のものに若干、追加・訂正する場合もありますので、あしからずご了承ください。
(↓記事は下に続きます)
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18:00
2008年09月05日
(0)新しい視点から
かつて、南西諸島には「琉球王国」という独立国家が存在していました。
沖縄が日本本土(ヤマト)とちがった文化や伝統を持ち、また自分たちを「ウチナーンチュ(沖縄人)」だと強く意識する背景には、歴史的に独自の道を歩んできたことがあります。日本とは別個の国家をつくりあげたことが「琉球・沖縄」のアイデンティティの形成に決定的な意味を持っているのです。
言ってみれば近代以前の沖縄の歴史は「琉球王国」の歴史だったのですが、まずその歴史を見ていくうえで、いくつかのふまえてほしい〈前提〉があります。
まずは「琉球・沖縄」という地域が地理的に見てどのようなところか、ということです。沖縄県は大小160の島々からなりたっています。それぞれの島は海で隔てられていて、不便な「絶海の孤島」という印象を持つかもしれません。島の大きさも日本本土の島々と比べてとてもちっぽけな島しかないと思うでしょう。たしかに「陸」だけの視点から見ればそうかもしれません。
しかし、沖縄という地域を見る際には、それは適切な見方ではないと思います。「海」は生活のできない死の世界で、島に生きる人々にとって外との世界を隔てる“壁”のような存在だったのではありません。近代以前においても島の人々、あるいは外から来た人々は船を自在にあやつり、活発に島々の間を移動していました。
もちろん現代より移動が便利だったわけではありませんが、「海」は“壁”ではなく、外の世界へとつながる“道”そして“生活圏”だったのです。陸だけの面積で見れば沖縄県は大阪府より若干大きいぐらいです。しかし島とその周りの海をひとつの世界としてとらえる「海域世界」という考えでとらえれば、南西諸島の範囲は実に東京から福岡あたりまでの広さに匹敵します。琉球王国はこの海域を統治した巨大な海洋国家だったのです。
そしてもうひとつ。意外に思うかもしれませんが、近代以前、人々は活発に地域間を往来するなかで、「民族」や「国境」という観念をあまり意識していませんでした。この傾向はとくに近世(江戸時代)以前に顕著です。グローバル化が進む現代の状況は、かつて「中世(古琉球)」という時代、すでに出現していた状況なのです(現代社会を「新しい中世」と呼ぶ学者もいます)。
つまり沖縄でも太古から「ウチナーンチュ」あるいは「琉球民族」という枠があらかじめ決まっていて、琉球の歴史が展開したのではないということです。それは沖縄や北海道をふくめた現代の「日本国」「日本人」の枠組みが、神話の時代からあらかじめ決まっていたわけではないのと同じことです。琉球王国は南西諸島に昔から住む人だけでなく、外の世界から来た様々な人も参加して、歴史を重ねていくなかで「琉球」という主体を自らつくりあげていったのです。
以上をふまえてこれから紹介する沖縄の歴史を読んでいただけると、これまでの教科書や入門書で紹介されている沖縄の歴史とは全く違った面が見えてくると思います。
ここでの解説は、王様の順番をもとに歴史を説明する「王統史観」は採用しません。「琉球・沖縄」という地域が、外の世界とどのように関わりながら自らを形成していったかを、最新の研究成果をもとに述べていこうと思います。
沖縄が日本本土(ヤマト)とちがった文化や伝統を持ち、また自分たちを「ウチナーンチュ(沖縄人)」だと強く意識する背景には、歴史的に独自の道を歩んできたことがあります。日本とは別個の国家をつくりあげたことが「琉球・沖縄」のアイデンティティの形成に決定的な意味を持っているのです。
言ってみれば近代以前の沖縄の歴史は「琉球王国」の歴史だったのですが、まずその歴史を見ていくうえで、いくつかのふまえてほしい〈前提〉があります。
まずは「琉球・沖縄」という地域が地理的に見てどのようなところか、ということです。沖縄県は大小160の島々からなりたっています。それぞれの島は海で隔てられていて、不便な「絶海の孤島」という印象を持つかもしれません。島の大きさも日本本土の島々と比べてとてもちっぽけな島しかないと思うでしょう。たしかに「陸」だけの視点から見ればそうかもしれません。
しかし、沖縄という地域を見る際には、それは適切な見方ではないと思います。「海」は生活のできない死の世界で、島に生きる人々にとって外との世界を隔てる“壁”のような存在だったのではありません。近代以前においても島の人々、あるいは外から来た人々は船を自在にあやつり、活発に島々の間を移動していました。
もちろん現代より移動が便利だったわけではありませんが、「海」は“壁”ではなく、外の世界へとつながる“道”そして“生活圏”だったのです。陸だけの面積で見れば沖縄県は大阪府より若干大きいぐらいです。しかし島とその周りの海をひとつの世界としてとらえる「海域世界」という考えでとらえれば、南西諸島の範囲は実に東京から福岡あたりまでの広さに匹敵します。琉球王国はこの海域を統治した巨大な海洋国家だったのです。
そしてもうひとつ。意外に思うかもしれませんが、近代以前、人々は活発に地域間を往来するなかで、「民族」や「国境」という観念をあまり意識していませんでした。この傾向はとくに近世(江戸時代)以前に顕著です。グローバル化が進む現代の状況は、かつて「中世(古琉球)」という時代、すでに出現していた状況なのです(現代社会を「新しい中世」と呼ぶ学者もいます)。
つまり沖縄でも太古から「ウチナーンチュ」あるいは「琉球民族」という枠があらかじめ決まっていて、琉球の歴史が展開したのではないということです。それは沖縄や北海道をふくめた現代の「日本国」「日本人」の枠組みが、神話の時代からあらかじめ決まっていたわけではないのと同じことです。琉球王国は南西諸島に昔から住む人だけでなく、外の世界から来た様々な人も参加して、歴史を重ねていくなかで「琉球」という主体を自らつくりあげていったのです。
以上をふまえてこれから紹介する沖縄の歴史を読んでいただけると、これまでの教科書や入門書で紹介されている沖縄の歴史とは全く違った面が見えてくると思います。
ここでの解説は、王様の順番をもとに歴史を説明する「王統史観」は採用しません。「琉球・沖縄」という地域が、外の世界とどのように関わりながら自らを形成していったかを、最新の研究成果をもとに述べていこうと思います。
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20:00
2008年09月06日
(1)“琉球文化圏”の成立
南西諸島がひとつの「琉球文化圏」として形作られはじめるのは10~12世紀頃から。日本でいえば平安時代に当たります。それまでの南西諸島は「奄美・沖縄文化圏」と「先島文化圏」に分かれて両者の交流は全くと言っていいほどなく、長く漁労採集の時代が続いていました(貝塚時代)。
ところが10世紀にはいると劇的な社会の変化が訪れます。北のヤマトからのヒト・モノの流れが活発となり、ふたつの文化圏にも交流が生まれます。この時期には奄美地域、とくに奄美大島北部・喜界島が日本の国家と関係しながら独自の政治勢力をつくり、文化の発信地になっていたようです。さらに最近発見された喜界島の城久(ぐすく)遺跡群は、九州大宰府の出先機関の跡ではないかと指摘されています。
ゆるやかカタチで形成された「琉球文化圏」には、徳之島で生産された朝鮮半島系の須恵器「カムィヤキ」や長崎産の高級な石製ナベが南西諸島の全域に流通するようになり、この頃から各地で農耕も開始されます。これらの外来物は、当時の国際貿易港だった博多を基点とした流通のなかで出回ったものでした。また南西諸島に住む人々の骨の形質も本土日本人のものとほぼ同じになっていきます。
【図】カムィヤキ
このヤマトからのヒトの流入の背景には、日本と中国(宋)との貿易がさかんになり、ヤコウガイや硫黄などの南島産物を求めて商人たちが活動したことがあるといわれます。しかし、ヒトの流入は南西諸島に「倭寇」のような渡来人が一気におしよせて地元民を征服したのではなく、長い時間をかけて現地の人々と同化しつつ、内部世界の主導によって変化していったようです。
言いかえれば、ヤマトの渡来者はウチナー(沖縄)社会に同化しながら、南西諸島に新しい社会・文化を生み出していったということでしょうか。
12世紀前後からの農耕社会の発達にともない、南西諸島の各地では政治的なリーダーが成長していきます。「按司(あじ)」や「世の主(よのぬし)」と呼ばれる首長です。按司たちは「グスク」と呼ばれる城塞をかまえ、自らの権力を拡大すべく抗争をくり返します。琉球は戦国乱世に突入するのです。この時代は「グスク時代」と呼ばれています。
ところが10世紀にはいると劇的な社会の変化が訪れます。北のヤマトからのヒト・モノの流れが活発となり、ふたつの文化圏にも交流が生まれます。この時期には奄美地域、とくに奄美大島北部・喜界島が日本の国家と関係しながら独自の政治勢力をつくり、文化の発信地になっていたようです。さらに最近発見された喜界島の城久(ぐすく)遺跡群は、九州大宰府の出先機関の跡ではないかと指摘されています。
ゆるやかカタチで形成された「琉球文化圏」には、徳之島で生産された朝鮮半島系の須恵器「カムィヤキ」や長崎産の高級な石製ナベが南西諸島の全域に流通するようになり、この頃から各地で農耕も開始されます。これらの外来物は、当時の国際貿易港だった博多を基点とした流通のなかで出回ったものでした。また南西諸島に住む人々の骨の形質も本土日本人のものとほぼ同じになっていきます。
【図】カムィヤキ
このヤマトからのヒトの流入の背景には、日本と中国(宋)との貿易がさかんになり、ヤコウガイや硫黄などの南島産物を求めて商人たちが活動したことがあるといわれます。しかし、ヒトの流入は南西諸島に「倭寇」のような渡来人が一気におしよせて地元民を征服したのではなく、長い時間をかけて現地の人々と同化しつつ、内部世界の主導によって変化していったようです。
言いかえれば、ヤマトの渡来者はウチナー(沖縄)社会に同化しながら、南西諸島に新しい社会・文化を生み出していったということでしょうか。
12世紀前後からの農耕社会の発達にともない、南西諸島の各地では政治的なリーダーが成長していきます。「按司(あじ)」や「世の主(よのぬし)」と呼ばれる首長です。按司たちは「グスク」と呼ばれる城塞をかまえ、自らの権力を拡大すべく抗争をくり返します。琉球は戦国乱世に突入するのです。この時代は「グスク時代」と呼ばれています。
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19:00
2008年09月07日
(2)三山の時代と国際社会へのデビュー
戦乱の激化する沖縄島では、やがて3つの大勢力(山北・中山・山南)が形成されていきます。のちに「三山(さんざん)」と総称される政治勢力です。
3勢力のリーダーは各按司をたばねる「世の主」として君臨しましたが、その権力は按司の連合政権というかたちで成り立っていました。「世の主」は必ずしも血筋で継がれず、按司たちの合意のもと、その時々の有力者によって担われていたようです。
三山のなかでも「中山(ちゅうざん)」は突出した勢力で、その拠点である浦添グスクは琉球最大の規模を誇っていました。浦添の「世の主」には、舜天(しゅんてん)・英祖(えいそ)・察度(さっと)などがいました。
一方、外の世界ではまたもや大きな変化が起こります。中国の元朝が衰退して内乱が起こり、それまで日本と中国とのメインルートであった博多―明州(いまの寧波)ルートが断絶したのです。
その結果、サブルートにすぎなかった南九州から南西諸島を経由して中国福建へ向かうルートが一時的に日中間航路のメインとして利用され、琉球が注目されはじめます。日中間を往来する海商たちは天然の良港で島状になっていた那覇に居留地をつくり、那覇は「国際貿易特区」ともいうべき姿に変貌していきます。
1368年に元朝を倒した明朝は、超大国の「中華」として周辺諸国に臣下の礼をとらせて公的貿易を許し(冊封・朝貢関係)、それ以外の私的な貿易活動・海外渡航は一切禁止します(海禁政策)。
琉球は1372年に中山の察度が明朝の求めに応じ、以後500年にわたって続く中国との公的な通交関係が開始されます。明朝はそれまで私的に貿易を行っていた海商たちが密貿易をして海賊化することを恐れていました。そこで琉球を有力な交易国家に育て、彼ら民間海商を琉球の公的貿易に参加させることで合法的に活動する機会を与えようとしたのです(対モンゴルの軍需物資としての琉球産の馬や硫黄は、優遇策の直接的な要因ではなかったようです)。
明朝は琉球を優遇して貿易の機会を増やし、朝貢に必要な大型海船や航海スタッフも惜しみなく与えます。派遣されたスタッフは那覇にあった中国系移民(華人)たちの居留地(久米村)に合流し、後に「閩人(びんじん)三十六姓」と呼ばれます。
琉球はこの優遇された条件のもと、大型海船と久米村の優秀なスタッフを活用することで、やがて海域アジア世界の中継貿易を行い「万国の架け橋」となるのです。その活動の範囲は日本や朝鮮、中国、東南アジアまで及びます。
3勢力のリーダーは各按司をたばねる「世の主」として君臨しましたが、その権力は按司の連合政権というかたちで成り立っていました。「世の主」は必ずしも血筋で継がれず、按司たちの合意のもと、その時々の有力者によって担われていたようです。
三山のなかでも「中山(ちゅうざん)」は突出した勢力で、その拠点である浦添グスクは琉球最大の規模を誇っていました。浦添の「世の主」には、舜天(しゅんてん)・英祖(えいそ)・察度(さっと)などがいました。
一方、外の世界ではまたもや大きな変化が起こります。中国の元朝が衰退して内乱が起こり、それまで日本と中国とのメインルートであった博多―明州(いまの寧波)ルートが断絶したのです。
その結果、サブルートにすぎなかった南九州から南西諸島を経由して中国福建へ向かうルートが一時的に日中間航路のメインとして利用され、琉球が注目されはじめます。日中間を往来する海商たちは天然の良港で島状になっていた那覇に居留地をつくり、那覇は「国際貿易特区」ともいうべき姿に変貌していきます。
1368年に元朝を倒した明朝は、超大国の「中華」として周辺諸国に臣下の礼をとらせて公的貿易を許し(冊封・朝貢関係)、それ以外の私的な貿易活動・海外渡航は一切禁止します(海禁政策)。
琉球は1372年に中山の察度が明朝の求めに応じ、以後500年にわたって続く中国との公的な通交関係が開始されます。明朝はそれまで私的に貿易を行っていた海商たちが密貿易をして海賊化することを恐れていました。そこで琉球を有力な交易国家に育て、彼ら民間海商を琉球の公的貿易に参加させることで合法的に活動する機会を与えようとしたのです(対モンゴルの軍需物資としての琉球産の馬や硫黄は、優遇策の直接的な要因ではなかったようです)。
明朝は琉球を優遇して貿易の機会を増やし、朝貢に必要な大型海船や航海スタッフも惜しみなく与えます。派遣されたスタッフは那覇にあった中国系移民(華人)たちの居留地(久米村)に合流し、後に「閩人(びんじん)三十六姓」と呼ばれます。
琉球はこの優遇された条件のもと、大型海船と久米村の優秀なスタッフを活用することで、やがて海域アジア世界の中継貿易を行い「万国の架け橋」となるのです。その活動の範囲は日本や朝鮮、中国、東南アジアまで及びます。
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19:00
2008年09月08日
(3)おきなわの「琉球化」
明朝との関係成立は、沖縄島の社会に決定的なインパクトを与えることになりました。それまで中国側では南西諸島と台湾あたりをぼんやりと「流求」などと呼んでいたのですが、この時期から「琉球国」が明確に沖縄を指す名称になっていきます(台湾は小琉球と呼ばれます)。沖縄島の3大勢力の「世の主」たちは明朝から「王」として把握され、やがて自らも「王」を名乗るようになります。外から与えられた名称を自分のものにしていくのです。
また中国の先進文化が一気に琉球に流れこみ、陶磁器や絹織物など高価な中国製品がもたらされます。三山の王たちは貿易活動で利益を得て権力を強化し、さらに明朝皇帝から「王」として認められることで、その権威を利用して国内の求心力も得ようとします。やがて琉球では王権に中国皇帝の権威が不可欠なものになっていきます。
このように、外から沖縄を「琉球化」していく動きに対して、沖縄側はそれを受け入れて自らもすすんで内部から「琉球化」していくのです。
この頃の琉球社会は、突出した都市である浦添(のちに首里)・那覇と、その他の草深い村落社会という、二重の社会構造になっていました。つまりそれまでの「ウチナー」的村落社会のなかに、那覇(とそれに付属する首里)という「国際貿易特区」が新たに形成されたのです。
那覇は華人や日本人が居留地をつくり、他の地域とは全く異質な社会をつくりあげていました。「ウチナー」的社会からおこった三山の現地権力は、那覇の独立した外来勢力を活用することが琉球での覇権をにぎるカギでした。
この試みに成功して沖縄島を統一したのが佐敷按司の尚巴志(しょうはし)です。彼は軍事的な才能があり、有力な按司を次々に倒して台頭するのですが、やがて那覇の華人たちと協力関係を結んで中山王となり、1429年には三山を統一して琉球王国を樹立します(第一尚氏王朝)。
那覇の華人たちは貿易活動だけではなく、現地政権の内部にも入りこみ政治にも参加します。第一尚氏王朝はとくに華人たちとの結びつきが強く、国政の最高顧問には華人の懐機(かいき)が就いて琉球王国のかじ取りをしていきます。
琉球の国政には日本人も参加していました。ヤマトから渡来した禅僧は対日外交を担当し、またヤマトの文化ももたらします。琉球の寺院は外務省と大学の役割も果たすのです。
交易国家の政権の中枢に外来勢力が参加するのは東南アジア(さらに世界史一般)でもよく見られる現象です。琉球王国は「ウチナー」だけで成り立っていたのではなく、外からの人々を積極的に取り込むことではじめて国際社会のなかで繁栄することができたのです。
また中国の先進文化が一気に琉球に流れこみ、陶磁器や絹織物など高価な中国製品がもたらされます。三山の王たちは貿易活動で利益を得て権力を強化し、さらに明朝皇帝から「王」として認められることで、その権威を利用して国内の求心力も得ようとします。やがて琉球では王権に中国皇帝の権威が不可欠なものになっていきます。
このように、外から沖縄を「琉球化」していく動きに対して、沖縄側はそれを受け入れて自らもすすんで内部から「琉球化」していくのです。
この頃の琉球社会は、突出した都市である浦添(のちに首里)・那覇と、その他の草深い村落社会という、二重の社会構造になっていました。つまりそれまでの「ウチナー」的村落社会のなかに、那覇(とそれに付属する首里)という「国際貿易特区」が新たに形成されたのです。
【図】古琉球の那覇
那覇は華人や日本人が居留地をつくり、他の地域とは全く異質な社会をつくりあげていました。「ウチナー」的社会からおこった三山の現地権力は、那覇の独立した外来勢力を活用することが琉球での覇権をにぎるカギでした。
この試みに成功して沖縄島を統一したのが佐敷按司の尚巴志(しょうはし)です。彼は軍事的な才能があり、有力な按司を次々に倒して台頭するのですが、やがて那覇の華人たちと協力関係を結んで中山王となり、1429年には三山を統一して琉球王国を樹立します(第一尚氏王朝)。
那覇の華人たちは貿易活動だけではなく、現地政権の内部にも入りこみ政治にも参加します。第一尚氏王朝はとくに華人たちとの結びつきが強く、国政の最高顧問には華人の懐機(かいき)が就いて琉球王国のかじ取りをしていきます。
琉球の国政には日本人も参加していました。ヤマトから渡来した禅僧は対日外交を担当し、またヤマトの文化ももたらします。琉球の寺院は外務省と大学の役割も果たすのです。
交易国家の政権の中枢に外来勢力が参加するのは東南アジア(さらに世界史一般)でもよく見られる現象です。琉球王国は「ウチナー」だけで成り立っていたのではなく、外からの人々を積極的に取り込むことではじめて国際社会のなかで繁栄することができたのです。
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19:00
2008年09月09日
(4)琉球王国の拡大と貿易の衰退
沖縄島を統一した第一尚氏王朝ですが、この政権は権力の基盤が弱く、尚巴志や懐機などのカリスマが死んだ後には王位継承争いや有力按司の反乱が次々に起こります。按司はいまだ各地に割拠していて、按司連合政権の性格は基本的に変わっていなかったのです。さらに明朝はそれまでの琉球の優遇策をやめ、貿易を縮小させようとします。実は琉球の対外貿易の全盛期は三山時代で、この頃から次第に衰退していきます。
1470年、第一尚氏王朝は金丸(のちの尚円)のクーデターによって滅び、新政権が誕生します(第二尚氏王朝)。新政権は国内の権力強化と版図拡大をはかりますが、この動きの背景には、貿易活動の衰退をカバーするため、国内の体制を強化して乗り切ろうとしたことがあったと言われています。
尚真の時代には王府が各地の按司の権力を奪って中央集権化を達成し、国王が絶対的な権力を手にします。また沖縄島の琉球王国は奄美と先島(宮古・八重山)地域へ軍事侵攻し、この頃までに北は奄美大島、南は与那国島までの広大な海域にまたがる島々を支配下におく国家を築きあげるのです。
しかしそれもつかの間、16世紀に入ると琉球をとりまく国際情勢は大きな転換期を迎えます。それは全世界をつないだグローバル経済の成立です。ヨーロッパ勢力のアジア進出と、中国の銀需要の増大で海域アジア世界は空前の「商業ブーム」が生まれます。南米産と日本産の「銀」が世界経済を動かす血液となり、民間の交易商人たちが世界規模で活動しはじめるのです。
それまで明朝のもとで国営中継貿易を行っていた琉球王府は、この「民営化」の動きにほとんど対応できませんでした。しかし国際貿易港であった那覇は日本から東南アジアへ渡航する民間の交易商人たちの中継地として利用されていきます。東南アジア各地にあるような「日本人町」としての機能を那覇も果たしていきます。
1470年、第一尚氏王朝は金丸(のちの尚円)のクーデターによって滅び、新政権が誕生します(第二尚氏王朝)。新政権は国内の権力強化と版図拡大をはかりますが、この動きの背景には、貿易活動の衰退をカバーするため、国内の体制を強化して乗り切ろうとしたことがあったと言われています。
尚真の時代には王府が各地の按司の権力を奪って中央集権化を達成し、国王が絶対的な権力を手にします。また沖縄島の琉球王国は奄美と先島(宮古・八重山)地域へ軍事侵攻し、この頃までに北は奄美大島、南は与那国島までの広大な海域にまたがる島々を支配下におく国家を築きあげるのです。
しかしそれもつかの間、16世紀に入ると琉球をとりまく国際情勢は大きな転換期を迎えます。それは全世界をつないだグローバル経済の成立です。ヨーロッパ勢力のアジア進出と、中国の銀需要の増大で海域アジア世界は空前の「商業ブーム」が生まれます。南米産と日本産の「銀」が世界経済を動かす血液となり、民間の交易商人たちが世界規模で活動しはじめるのです。
それまで明朝のもとで国営中継貿易を行っていた琉球王府は、この「民営化」の動きにほとんど対応できませんでした。しかし国際貿易港であった那覇は日本から東南アジアへ渡航する民間の交易商人たちの中継地として利用されていきます。東南アジア各地にあるような「日本人町」としての機能を那覇も果たしていきます。
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19:00
2008年09月10日
(5)薩摩藩の琉球征服
その頃、北のヤマトでは戦国時代。豊臣秀吉が天下を統一して、さらにアジア世界の征服をもくろみます。
【図】豊臣秀吉
秀吉は明を征服するためまず朝鮮に出兵し、琉球にも薩摩の島津氏を通じて服従をせまってきます。秀吉の企ては結局失敗に終わりますが、次は徳川家康が、秀吉の出兵で断絶した明朝との関係修復を琉球に仲介させようとし、島津氏がこれに乗じて琉球の支配を狙います。
この頃の薩摩内部は3つの派閥(島津義久・義弘・家久)に分かれ反目しあっていました。当主の家久は琉球領だった奄美を攻め取って家臣に与え、これをきっかけに藩内をひとつにまとめようとしたのです。
幕府は東北への琉球船漂着事件をきっかけに琉球へ使者を派遣するよう求めましたが、使者を派遣することは従属を意味していたため琉球は拒否します。そこで幕府は島津氏に琉球侵攻を許可し、1609年、薩摩軍が琉球に侵攻します。琉球は軍隊を動員して迎え撃ちますが、戦国乱世をくぐり抜けてきた精強な薩摩軍の前にはひとたまりもなく、敗れて薩摩藩に従属する存在となるのです。
グスク時代から王国の成立を経て、薩摩に征服されるまでの完全な独立国だった時代は「古琉球」と呼ばれています。
【図】豊臣秀吉
秀吉は明を征服するためまず朝鮮に出兵し、琉球にも薩摩の島津氏を通じて服従をせまってきます。秀吉の企ては結局失敗に終わりますが、次は徳川家康が、秀吉の出兵で断絶した明朝との関係修復を琉球に仲介させようとし、島津氏がこれに乗じて琉球の支配を狙います。
この頃の薩摩内部は3つの派閥(島津義久・義弘・家久)に分かれ反目しあっていました。当主の家久は琉球領だった奄美を攻め取って家臣に与え、これをきっかけに藩内をひとつにまとめようとしたのです。
幕府は東北への琉球船漂着事件をきっかけに琉球へ使者を派遣するよう求めましたが、使者を派遣することは従属を意味していたため琉球は拒否します。そこで幕府は島津氏に琉球侵攻を許可し、1609年、薩摩軍が琉球に侵攻します。琉球は軍隊を動員して迎え撃ちますが、戦国乱世をくぐり抜けてきた精強な薩摩軍の前にはひとたまりもなく、敗れて薩摩藩に従属する存在となるのです。
グスク時代から王国の成立を経て、薩摩に征服されるまでの完全な独立国だった時代は「古琉球」と呼ばれています。
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19:00
2008年09月11日
(6)日本版「小中華」に組み込まれた琉球
薩摩軍に征服された琉球は王国体制の維持が許されたものの、徳川幕府の体制下に組み込まれてしまいました。薩摩藩は絶対的な権力をもって琉球の上に君臨したのではなく、あくまでも日本の幕藩制国家のなかで琉球支配を担当する存在でした。
薩摩は琉球から奄美地域を割譲させ、また年貢の納入を義務付けます。さらに琉球の朝貢貿易にも介入していきます。琉球は様々な政治的規制をうけましたが、基本的な自治権は確保されており、最終的な政策の実行は王府にゆだねられていました。
江戸時代の日本は天皇・将軍を頂点に、朝鮮・琉球・アイヌ・オランダを従属した存在とみなして、中国とは別個の日本版「小中華」の国際秩序を(なかば観念的に)つくりあげていました。
幕府は日本の対外窓口を4つ(対馬・薩摩・松前・長崎)に限定して海外渡航を制限します(この政策はのちに「鎖国」と呼ばれます)。琉球は薩摩藩を通じて、日本の対外窓口の中心であった長崎のサブルートとしての役割も果たすのです。また「鎖国」政策は琉球にも適用され、自由な海外渡航ができなくなった外来の人々は、固定化された近世の琉球社会に同化していきます。
琉球は日本版「小中華」秩序のなかで実際に従う国として、幕府の権威を高めるための重要な存在となります(朝鮮やオランダは日本側から勝手に従属国とみなされていましたが、実際にはちがいました)。琉球は国王や将軍の代替わりの際に徳川幕府へ使節団を派遣し(江戸上り)、また薩摩藩にも次期国王の王子が派遣されて薩摩との従属関係を確認します(中城王子上国)。
近世の琉球王国を薩摩藩の「奴隷」状態であったとする説は近年では否定され、実際には中国と日本に二重に“朝貢”する国家だったとする見方が有力になっています。薩摩に征服されてから明治に王国が滅びるまでの時代を「近世琉球」といいます。
薩摩は琉球から奄美地域を割譲させ、また年貢の納入を義務付けます。さらに琉球の朝貢貿易にも介入していきます。琉球は様々な政治的規制をうけましたが、基本的な自治権は確保されており、最終的な政策の実行は王府にゆだねられていました。
江戸時代の日本は天皇・将軍を頂点に、朝鮮・琉球・アイヌ・オランダを従属した存在とみなして、中国とは別個の日本版「小中華」の国際秩序を(なかば観念的に)つくりあげていました。
幕府は日本の対外窓口を4つ(対馬・薩摩・松前・長崎)に限定して海外渡航を制限します(この政策はのちに「鎖国」と呼ばれます)。琉球は薩摩藩を通じて、日本の対外窓口の中心であった長崎のサブルートとしての役割も果たすのです。また「鎖国」政策は琉球にも適用され、自由な海外渡航ができなくなった外来の人々は、固定化された近世の琉球社会に同化していきます。
琉球は日本版「小中華」秩序のなかで実際に従う国として、幕府の権威を高めるための重要な存在となります(朝鮮やオランダは日本側から勝手に従属国とみなされていましたが、実際にはちがいました)。琉球は国王や将軍の代替わりの際に徳川幕府へ使節団を派遣し(江戸上り)、また薩摩藩にも次期国王の王子が派遣されて薩摩との従属関係を確認します(中城王子上国)。
近世の琉球王国を薩摩藩の「奴隷」状態であったとする説は近年では否定され、実際には中国と日本に二重に“朝貢”する国家だったとする見方が有力になっています。薩摩に征服されてから明治に王国が滅びるまでの時代を「近世琉球」といいます。
Posted by トラヒコ at
19:00
2008年09月12日
(7)明朝の崩壊と琉球の大改革
琉球王国が日本の幕藩体制に組みこまれた頃、中国の明朝は弱体化していました。1644年、反乱軍によって都の北京が陥落して明朝は滅びます。代わって政権をにぎったのは女真(満州)族の清朝です。
超大国の「中華」・明朝が倒れたことでアジア周辺諸国は大きな衝撃を受け、朝貢国だった琉球でも大騒動になりますが、結局は清朝に従います。この動乱で中国貿易も一時的に断絶してしまい、また琉球国内では薩摩の征服後にこれまでの矛盾が噴出し、王国の社会システムが機能不全を起こしていました。
内外の混乱のなか、事態を打開すべく登場したのが羽地朝秀(はねじ・ちょうしゅう)です。彼は強力なリーダーシップを発揮し、それまでの古琉球の政治・経済・社会を大転換する改革を断行します。現在私たちが認識する琉球の「伝統」は、ほとんどこの時期から生まれたものです。羽地はこれまでの「海」を中心とした交易国家の社会システムから、日本の幕藩制国家に整合させるようなかたちで「陸」を中心とした農業国家の社会システムへと転換させるのです。
【図】羽地朝秀(想像画)
近世の琉球王国は国内で生産した砂糖やウコンなどの高付加価値の商品をヤマト市場へ売却してばく大な利益を得、その資金をもとに中国との貿易を行うというサイクルをつくりあげます。その結果、琉球はヤマト経済への依存・一体化が進行しましたが、それまで衰退・地盤沈下しつつあった琉球は、近世の国際秩序に対応しながら新しい体制を築いて再びよみがえったのです。
羽地の改革路線を継ぎ、琉球王国の近世体制を完成させたのが蔡温(さいおん)です。この頃に進められた重要な動きは琉球の「中国化」です。新たな価値観として儒教イデオロギーが導入され、風水思想をはじめとした中国文化を以前にも増して積極的に取り入れていきます。琉球の「伝統」文化がどことなく中国に近い印象があるのは、この時期の「中国化」政策によるところが大きいといえるでしょう。また中国式の船「マーラン船」の導入と、あわせて行われた商品流通政策の結果、王国の海域内には網の目のような海上の物流ネットワークがはりめぐらされました。
「中国化」政策の背景には、清朝が朝貢貿易を縮小させようとする動きに対して、「中華」に従う忠実な優等生を演じてその回避をはかったことと、ヤマトに呑み込まれないよう自らを「中国化」して新たな「琉球」のアイデンティティを創ろうとしたことがあったのではないかといわれています。意外なことに、完全な独立国家であった古琉球よりも、むしろ近世になって「琉球人」意識は増幅・強化されていきます。
このように、日本と中国へ“二重朝貢”する近世の琉球は、両大国のはざ間で決して自己を見失わず、絶妙なバランスをとりながら限られたなかでの主体性を保持しようとつとめていたことがわかります。
超大国の「中華」・明朝が倒れたことでアジア周辺諸国は大きな衝撃を受け、朝貢国だった琉球でも大騒動になりますが、結局は清朝に従います。この動乱で中国貿易も一時的に断絶してしまい、また琉球国内では薩摩の征服後にこれまでの矛盾が噴出し、王国の社会システムが機能不全を起こしていました。
内外の混乱のなか、事態を打開すべく登場したのが羽地朝秀(はねじ・ちょうしゅう)です。彼は強力なリーダーシップを発揮し、それまでの古琉球の政治・経済・社会を大転換する改革を断行します。現在私たちが認識する琉球の「伝統」は、ほとんどこの時期から生まれたものです。羽地はこれまでの「海」を中心とした交易国家の社会システムから、日本の幕藩制国家に整合させるようなかたちで「陸」を中心とした農業国家の社会システムへと転換させるのです。
【図】羽地朝秀(想像画)
近世の琉球王国は国内で生産した砂糖やウコンなどの高付加価値の商品をヤマト市場へ売却してばく大な利益を得、その資金をもとに中国との貿易を行うというサイクルをつくりあげます。その結果、琉球はヤマト経済への依存・一体化が進行しましたが、それまで衰退・地盤沈下しつつあった琉球は、近世の国際秩序に対応しながら新しい体制を築いて再びよみがえったのです。
羽地の改革路線を継ぎ、琉球王国の近世体制を完成させたのが蔡温(さいおん)です。この頃に進められた重要な動きは琉球の「中国化」です。新たな価値観として儒教イデオロギーが導入され、風水思想をはじめとした中国文化を以前にも増して積極的に取り入れていきます。琉球の「伝統」文化がどことなく中国に近い印象があるのは、この時期の「中国化」政策によるところが大きいといえるでしょう。また中国式の船「マーラン船」の導入と、あわせて行われた商品流通政策の結果、王国の海域内には網の目のような海上の物流ネットワークがはりめぐらされました。
「中国化」政策の背景には、清朝が朝貢貿易を縮小させようとする動きに対して、「中華」に従う忠実な優等生を演じてその回避をはかったことと、ヤマトに呑み込まれないよう自らを「中国化」して新たな「琉球」のアイデンティティを創ろうとしたことがあったのではないかといわれています。意外なことに、完全な独立国家であった古琉球よりも、むしろ近世になって「琉球人」意識は増幅・強化されていきます。
このように、日本と中国へ“二重朝貢”する近世の琉球は、両大国のはざ間で決して自己を見失わず、絶妙なバランスをとりながら限られたなかでの主体性を保持しようとつとめていたことがわかります。
Posted by トラヒコ at
19:00
2008年09月13日
(8)近世体制の行き詰まり
蔡温は近世琉球の体制について、「日本と中国との関係を維持するために、実際の国力以上のことが求められている」と述べています。日本と中国との外交には多額の経費が必要であり、また農耕に適さない島国の琉球では、日本と同水準の農業社会にするにはもともと無理がありました。近世琉球の体制は自転車操業的な面が少なからずあったのですが、ひとたびボタンを掛けちがえると、とたんに成り立たなくなってしまう構造を持っていたのです。
19世紀に入ると国王や将軍が短命で次々と交代したため、短い周期で幕府への使節派遣や国王任命の式典を行わなくてはならなくなって財政は極度に圧迫され、さらにたび重なる自然災害(たとえば先島地域を襲った大津波)が発生して農村地域が破綻状態となり、年貢をほとんど徴収できなくなる事態となります。王府は各農村に特使を派遣して財政再建に乗り出しますがほとんど効果はありませんでした。
王府の財源である農村が破綻すると、国家存立に必要な外交の経費をまかなうためヤマトからの借金を重ねなければならず、財政は慢性的に悪化し、その返済のために農村への負担がさらに増していくという、負のスパイラルにおちいっていきます。
一方、ヤマトの幕藩制国家のシステムも次第に行き詰っていきます。薩摩藩も天文学的な負債を抱えていて(このため、明治維新へとつながる幕末の藩政改革が実行されるのですが)、その負担が転嫁され琉球経済を大混乱に陥れます。このようにヤマト経済とリンクしていた琉球にもシワ寄せが来て、国家経営は一層厳しいものとなっていったのです。
対外情勢も追い打ちをかけます。産業革命以降の欧米列強のアジア進出は琉球にも押し寄せ、欧米艦隊が次々に琉球へ来航し、アメリカのペリー艦隊も琉球を訪れます。ペリーは琉球を拠点に幕府との開国交渉を行うのです。王府はしたたかな外交戦術でペリーを翻弄しますが、その圧力に抗しきれずに修好条約を結びます。また中国清朝は太平天国の乱やアヘン戦争などで衰退し、中国を中心とした東アジアの国際秩序(冊封・朝貢体制)は揺らぎはじめます。
【図】那覇の護国寺に滞在した宣教師ベッテルハイムの碑
19世紀に入ると国王や将軍が短命で次々と交代したため、短い周期で幕府への使節派遣や国王任命の式典を行わなくてはならなくなって財政は極度に圧迫され、さらにたび重なる自然災害(たとえば先島地域を襲った大津波)が発生して農村地域が破綻状態となり、年貢をほとんど徴収できなくなる事態となります。王府は各農村に特使を派遣して財政再建に乗り出しますがほとんど効果はありませんでした。
王府の財源である農村が破綻すると、国家存立に必要な外交の経費をまかなうためヤマトからの借金を重ねなければならず、財政は慢性的に悪化し、その返済のために農村への負担がさらに増していくという、負のスパイラルにおちいっていきます。
一方、ヤマトの幕藩制国家のシステムも次第に行き詰っていきます。薩摩藩も天文学的な負債を抱えていて(このため、明治維新へとつながる幕末の藩政改革が実行されるのですが)、その負担が転嫁され琉球経済を大混乱に陥れます。このようにヤマト経済とリンクしていた琉球にもシワ寄せが来て、国家経営は一層厳しいものとなっていったのです。
対外情勢も追い打ちをかけます。産業革命以降の欧米列強のアジア進出は琉球にも押し寄せ、欧米艦隊が次々に琉球へ来航し、アメリカのペリー艦隊も琉球を訪れます。ペリーは琉球を拠点に幕府との開国交渉を行うのです。王府はしたたかな外交戦術でペリーを翻弄しますが、その圧力に抗しきれずに修好条約を結びます。また中国清朝は太平天国の乱やアヘン戦争などで衰退し、中国を中心とした東アジアの国際秩序(冊封・朝貢体制)は揺らぎはじめます。
【図】那覇の護国寺に滞在した宣教師ベッテルハイムの碑
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19:00
2008年09月14日
(9)琉球王国の終焉、「日本」のなかへ
幕末の混乱を収束させ、明治維新を達成した日本の新政府は近代国家の領土を画定させることを急ぎ、琉球併合に向け着々と準備を進めます。
1872年(明治5)、琉球王国は「琉球藩」として明治天皇から“冊封”されます。さらに琉球人が台湾に漂着して現地民に殺害された事件をきっかけに日本は台湾へ出兵し、琉球漂着民を日本国の属民であることを清朝側に認めさせてしまうのです。
次いで明治政府は琉球に対して清朝との外交関係(朝貢関係)を停止することを強要します。琉球側はこの撤回をはかるべく請願をくり返しますが、小手先の外交戦術で事態を打開できるほど状況は甘くなく、琉球は「近代」という時代の激流に呑み込まれていきます。1879年(明治12)、明治政府から派遣された松田道之は軍隊と警察をともなって首里城に乗り込み、琉球藩の廃止と沖縄県の設置を通告します(琉球処分。廃琉置県ともいう)。国王尚泰は東京へ連行され、ここに500年あまり続いた琉球王国は滅亡します。
沖縄県設置に反対する琉球の士族たちはひそかに中国に渡り、王国復活をめざして清朝に救援を求めます(脱清人)。宗主国だった清朝は日本の琉球併合に抗議し、アメリカが調停するかたちで日本と清朝で琉球王国を分割する案が出されますが、琉球側の意向を無視した分割案に対して中国内で活動する琉球人らは猛反発し、結局、交渉は先送りされます。
王国復活の動きも、日清戦争で清朝が敗れると沈静化し、琉球は以後「日本のなかの沖縄」として歩みはじめるのです。
【図】脱清人たちの眠る福州の琉球人墓地
1872年(明治5)、琉球王国は「琉球藩」として明治天皇から“冊封”されます。さらに琉球人が台湾に漂着して現地民に殺害された事件をきっかけに日本は台湾へ出兵し、琉球漂着民を日本国の属民であることを清朝側に認めさせてしまうのです。
次いで明治政府は琉球に対して清朝との外交関係(朝貢関係)を停止することを強要します。琉球側はこの撤回をはかるべく請願をくり返しますが、小手先の外交戦術で事態を打開できるほど状況は甘くなく、琉球は「近代」という時代の激流に呑み込まれていきます。1879年(明治12)、明治政府から派遣された松田道之は軍隊と警察をともなって首里城に乗り込み、琉球藩の廃止と沖縄県の設置を通告します(琉球処分。廃琉置県ともいう)。国王尚泰は東京へ連行され、ここに500年あまり続いた琉球王国は滅亡します。
沖縄県設置に反対する琉球の士族たちはひそかに中国に渡り、王国復活をめざして清朝に救援を求めます(脱清人)。宗主国だった清朝は日本の琉球併合に抗議し、アメリカが調停するかたちで日本と清朝で琉球王国を分割する案が出されますが、琉球側の意向を無視した分割案に対して中国内で活動する琉球人らは猛反発し、結局、交渉は先送りされます。
王国復活の動きも、日清戦争で清朝が敗れると沈静化し、琉球は以後「日本のなかの沖縄」として歩みはじめるのです。
【図】脱清人たちの眠る福州の琉球人墓地
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19:00
2009年02月08日
厳選!琉球史の本~もっと詳しく知りたい方に~
琉球の歴史をもっと詳しく知りたい方のために、参考文献をあげておきます。
【難易度】
★ …簡単、よみやすい
★★ …比較的読みやすい、歴史に興味のある人向け
★★★ …専門家向け。歴史をきわめたい人向け
【最新の研究をわかりやすく知りたい方に】
・上里隆史『目からウロコの琉球・沖縄史』(ボーダーインク、2007)★
・新城俊昭『高等学校 琉球・沖縄史(新訂・増補版)』(東洋企画、2001)★
・新城俊昭『ジュニア版琉球・沖縄史』(東洋企画、2008)★
・沖縄県教育委員会編『概説・沖縄の歴史と文化』(沖縄県教育委員会、2000)★
【琉球・沖縄史の概説書】
・安里進ほか『県史47 沖縄県の歴史』(山川出版社、2004)★★
・豊見山和行・高良倉吉編『街道の日本史56 琉球・沖縄と海上の道』(吉川弘文館、2005)★★
・高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』(河出書房新社、1993)★
・赤嶺守2004 『琉球王国―東アジアのコーナーストーン』(講談社、2004)★★
【琉球・沖縄史の論文集】
・琉球新報社編『新琉球史・古琉球編』(琉球新報社、1991)★★
・琉球新報社編『新琉球史・近世編(上・下)』(琉球新報社、1989、1990)★★
・高良倉吉・豊見山和行・真栄平房昭編『新しい琉球史像 安良城盛昭先生追悼論集』(榕樹社、1996)★★★
・豊見山和行編『日本の時代史18 琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、2003)★★
【古琉球に関する本】
・上里隆史『誰も見たことのない琉球』(ボーダーインク、2008)★
・高良倉吉『琉球王国』(岩波新書、1993)★★
・大石直正・高良倉吉・高橋公明『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』(講談社、2001)★★
・入間田宣夫・豊見山和行『日本の中世5 北の平泉、南の琉球』(中央公論新社、2002)★★
・高良倉吉『琉球王国の構造』(吉川弘文館、1987)★★★
【近世琉球に関する本】
・沖縄県教育委員会編『新沖縄県史 近世編』(沖縄県教育委員会、2005)★★
・上原兼善『鎖国と藩貿易 薩摩藩の琉球密貿易』(八重岳書房、1981)★★
・豊見山和行『琉球王国の外交と王権』(吉川弘文館、2004)★★★
【難易度】
★ …簡単、よみやすい
★★ …比較的読みやすい、歴史に興味のある人向け
★★★ …専門家向け。歴史をきわめたい人向け
【最新の研究をわかりやすく知りたい方に】
・上里隆史『目からウロコの琉球・沖縄史』(ボーダーインク、2007)★
・新城俊昭『高等学校 琉球・沖縄史(新訂・増補版)』(東洋企画、2001)★
・新城俊昭『ジュニア版琉球・沖縄史』(東洋企画、2008)★
・沖縄県教育委員会編『概説・沖縄の歴史と文化』(沖縄県教育委員会、2000)★
【琉球・沖縄史の概説書】
・安里進ほか『県史47 沖縄県の歴史』(山川出版社、2004)★★
・豊見山和行・高良倉吉編『街道の日本史56 琉球・沖縄と海上の道』(吉川弘文館、2005)★★
・高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』(河出書房新社、1993)★
・赤嶺守2004 『琉球王国―東アジアのコーナーストーン』(講談社、2004)★★
【琉球・沖縄史の論文集】
・琉球新報社編『新琉球史・古琉球編』(琉球新報社、1991)★★
・琉球新報社編『新琉球史・近世編(上・下)』(琉球新報社、1989、1990)★★
・高良倉吉・豊見山和行・真栄平房昭編『新しい琉球史像 安良城盛昭先生追悼論集』(榕樹社、1996)★★★
・豊見山和行編『日本の時代史18 琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、2003)★★
【古琉球に関する本】
・上里隆史『誰も見たことのない琉球』(ボーダーインク、2008)★
・高良倉吉『琉球王国』(岩波新書、1993)★★
・大石直正・高良倉吉・高橋公明『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』(講談社、2001)★★
・入間田宣夫・豊見山和行『日本の中世5 北の平泉、南の琉球』(中央公論新社、2002)★★
・高良倉吉『琉球王国の構造』(吉川弘文館、1987)★★★
【近世琉球に関する本】
・沖縄県教育委員会編『新沖縄県史 近世編』(沖縄県教育委員会、2005)★★
・上原兼善『鎖国と藩貿易 薩摩藩の琉球密貿易』(八重岳書房、1981)★★
・豊見山和行『琉球王国の外交と王権』(吉川弘文館、2004)★★★
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16:57