2008年09月06日

(1)“琉球文化圏”の成立

南西諸島がひとつの「琉球文化圏」として形作られはじめるのは10~12世紀頃から。日本でいえば平安時代に当たります。それまでの南西諸島は「奄美・沖縄文化圏」と「先島文化圏」に分かれて両者の交流は全くと言っていいほどなく、長く漁労採集の時代が続いていました(貝塚時代)。

(1)“琉球文化圏”の成立


ところが10世紀にはいると劇的な社会の変化が訪れます。北のヤマトからのヒト・モノの流れが活発となり、ふたつの文化圏にも交流が生まれます。この時期には奄美地域、とくに奄美大島北部・喜界島が日本の国家と関係しながら独自の政治勢力をつくり、文化の発信地になっていたようです。さらに最近発見された喜界島の城久(ぐすく)遺跡群は、九州大宰府の出先機関の跡ではないかと指摘されています。

ゆるやかカタチで形成された「琉球文化圏」には、徳之島で生産された朝鮮半島系の須恵器「カムィヤキ」や長崎産の高級な石製ナベが南西諸島の全域に流通するようになり、この頃から各地で農耕も開始されます。これらの外来物は、当時の国際貿易港だった博多を基点とした流通のなかで出回ったものでした。また南西諸島に住む人々の骨の形質も本土日本人のものとほぼ同じになっていきます。

(1)“琉球文化圏”の成立
【図】カムィヤキ


このヤマトからのヒトの流入の背景には、日本と中国(宋)との貿易がさかんになり、ヤコウガイや硫黄などの南島産物を求めて商人たちが活動したことがあるといわれます。しかし、ヒトの流入は南西諸島に「倭寇」のような渡来人が一気におしよせて地元民を征服したのではなく、長い時間をかけて現地の人々と同化しつつ、内部世界の主導によって変化していったようです。

言いかえれば、ヤマトの渡来者はウチナー(沖縄)社会に同化しながら、南西諸島に新しい社会・文化を生み出していったということでしょうか。

12世紀前後からの農耕社会の発達にともない、南西諸島の各地では政治的なリーダーが成長していきます。「按司(あじ)」や「世の主(よのぬし)」と呼ばれる首長です。按司たちは「グスク」と呼ばれる城塞をかまえ、自らの権力を拡大すべく抗争をくり返します。琉球は戦国乱世に突入するのです。この時代は「グスク時代」と呼ばれています。



Posted by トラヒコ at 19:00