(8)近世体制の行き詰まり
蔡温は近世琉球の体制について、「日本と中国との関係を維持するために、実際の国力以上のことが求められている」と述べています。日本と中国との外交には多額の経費が必要であり、また農耕に適さない島国の琉球では、日本と同水準の農業社会にするにはもともと無理がありました。
近世琉球の体制は自転車操業的な面が少なからずあったのですが、ひとたびボタンを掛けちがえると、とたんに成り立たなくなってしまう構造を持っていたのです。
19世紀に入ると国王や将軍が短命で次々と交代したため、短い周期で幕府への使節派遣や国王任命の式典を行わなくてはならなくなって財政は極度に圧迫され、さらにたび重なる自然災害(たとえば先島地域を襲った大津波)が発生して農村地域が破綻状態となり、年貢をほとんど徴収できなくなる事態となります。王府は各農村に特使を派遣して財政再建に乗り出しますがほとんど効果はありませんでした。
王府の財源である農村が破綻すると、国家存立に必要な外交の経費をまかなうためヤマトからの借金を重ねなければならず、財政は慢性的に悪化し、その返済のために農村への負担がさらに増していくという、負のスパイラルにおちいっていきます。
一方、ヤマトの幕藩制国家のシステムも次第に行き詰っていきます。薩摩藩も天文学的な負債を抱えていて(このため、明治維新へとつながる幕末の藩政改革が実行されるのですが)、その負担が転嫁され琉球経済を大混乱に陥れます。このようにヤマト経済とリンクしていた琉球にもシワ寄せが来て、国家経営は一層厳しいものとなっていったのです。
対外情勢も追い打ちをかけます。産業革命以降の欧米列強のアジア進出は琉球にも押し寄せ、欧米艦隊が次々に琉球へ来航し、
アメリカのペリー艦隊も琉球を訪れます。ペリーは琉球を拠点に幕府との開国交渉を行うのです。王府はしたたかな外交戦術でペリーを翻弄しますが、その圧力に抗しきれずに修好条約を結びます。また中国清朝は太平天国の乱やアヘン戦争などで衰退し、中国を中心とした東アジアの国際秩序(冊封・朝貢体制)は揺らぎはじめます。
【図】那覇の護国寺に滞在した宣教師ベッテルハイムの碑